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12月29日(土) [はじめての親鸞(その2)]

 ぼくは若い頃から穏やかな日常に納まりきらない過剰なものを求め続けてきたような気がします。
 高校時代、日々の勉強と部活では物足りなくて、校門で幟を立てて生徒を待ち受けていた得体の知れない宗教団体の勧誘について行ったこともありました。哲学をやりたいと言い出して親を嘆かせたのも過剰なものへの憧れですし、大学の哲学科に入ったものの思い描いていた哲学はそこになく、何事もなく流れていく平凡な時間に嫌気がさして、東京の「アリの街」という名のバタヤ部落に自転車で行ったのも同じ渇きからです。そして時あたかも激しい政治の波が大学に押し寄せてきました。いわゆる全共闘運動です。これにも過剰なものを求めるぼくのこころが騒ぎました。
 またオウムの事件が起こった時、他人事とは思えませんでした。
 愚かとは思えない青年たちがどうしてあんな組織に引きつけられるのだろうとは思いませんでした。彼らも過剰なものを求めざるを得ない人たちなのだと思ったのです。林郁夫という人が獄中で書いた『オウムと私』を読み、その思いを強くしました。彼はぼくと同い年の医者ですが、過剰なものを求めている点でよく似ていると感じました。もちろん彼のやったこと(彼は地下鉄でサリンを撒いた実行犯です)は絶対に正当化できません。ですが、他の人たちが満ち足りているところに欠如を感じ、それを何とかして埋めなければと焦る人がいるということ、これを見落としてはいけないと思うのです。

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