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1月1日(火) [はじめての親鸞(その5)]

 あけましておめでとうございます。初日出というのは、何度目でも、やはり感慨深いものがあります。
 「なぜ生きる」は過剰な問いで、気恥ずかしく、アブナイところがあるということでした。それでもときおり泡のように胸の奥からぽつりぽつりと湧き上がってくるのはどうしようもありません。
 冒頭の「いまなぜ親鸞?」に戻ります。
 「なぜ生きる」という問いに、どうしてまた苔むしたような古い時代の、しかも日本のお坊さんを持ち出さなければならないのか。哲学や思想といえば、レヴィナスだのデリダだのドゥルーズだのといったポストモダンの哲学者たちが真っ先に頭に浮かぶのに、親鸞とはまた何と酔狂なと言われるかもしれません。
 しかし大事なことは、どのテキストを読むかではなく、どのような問題意識をもってテキストを読むかです。ぼくが抱えているのは「なぜ生きる」という過剰な問いです。この問いに手がかりを与えてくれるテキストならレヴィナスであれデリダであれ親鸞であれ関係ありません。
 では親鸞はこの問いにどのような手がかりを与えてくれるのでしょう。先回りして結論だけ言ってしまいますと「他力の思想」、これです。彼ほど他力ということをギリギリのところまで問い詰めた人はいないと思います。それが「なぜ生きる」の問いにひとつの答えを与えてくれるのです。
 「いま、なぜ親鸞?」は「いま、なぜ他力?」ということです。この自力の時代に、なぜ他力か、これを解き明かしたいと思うのです。

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