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1月3日(木) [はじめての親鸞(その7)]

 救いは自分で手に入れることができない、ということ。
 「はじめに」で言いましたように救いということばは過剰なことばです。「どうすれば救われるか?」などという問いは過剰な問いです。そんな問いは日々の平穏な生活には不要ですし、むしろ日常をかき乱す不協和音でしょう。
 でも、世の中には生きることにどこか居心地の悪さを感じている人がいます。時折胸の奥からぽつぽつと泡のように浮き上がってくるこの居心地の悪さを持て余している人にとっては、これほど切実な問いはありません。どうしたらこの居心地の悪さから抜け出せるかと考えざるを得ないのです。
 何か場違いな空間に身を置いたときを思い浮かべてください。例えば、他の人たちはみんなきちっと正装しているのに、何を勘違いしたか一人平服で来てしまったようなとき。しまったと思ったが、会場に入ってしまった以上もう出ることはできない。そんなとき居心地が悪いことこの上ありません。「このままここにいていいのだろうか」と気が気でない。しかしこの場から出ることができないとすれば、どうにかしてこの居心地の悪さを処理できないかともがくことになります。
 さて、この世にいることに居心地の悪さを感じてしまったらどうでしょうか。そんなとき「このまま生きていていいのだろうか」と思います。しかしそう簡単にこの世から消える訳にはいきませんから、どうすればこの居心地の悪さを和らげられるのだろうかと考えようとするはずです。切実に救いを求めることになるのです。

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