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1月4日(金) [はじめての親鸞(その8)]

 生きることの居心地の悪さに耐えかねて救いを求める、ということ。
 ぼくらは何か困ったことになったとき、誰かに助けを求めます。自分で何とかなると思えば助けを求めることはありませんが、それは大して困っていないということです。自分では何ともならないと、切羽詰って誰かにすがるのです。これが普通「他力」だと思われているのではないでしょうか。「自力」では何ともならないから「他力」にすがるのだと。
 「他力本願」ということばがあります。他人を当てにして自分で努力しないということですが、これも「他力」ということばを誰かに助けを求めるという意味で使っています。しかし、困り果てて誰かに助けを求めるのは「他力」ではありません。それは実は「自力」です。
 誰かに助けを求めるとき、ぼくらは頭の中で「誰が助けてくれるだろうか」とすばやく計算しています。「あの人ならきっと助けてくれるだろう」と思えるから助けを求めることができるのです。
 介護の負担に耐え切れなくなって心中を図るという事件が起こりますと、どうして自分ひとりで抱え込んでしまったのか、どうして周りに助けを求めなかったのかと言われます。でも、その人もきっと助けを求めたかったはずです。しかし残念ながら誰の顔も頭に浮かばなかったのではないでしょうか。
 誰も助けてくれそうな人がいないと思うから、これまで自分だけで頑張ってきたのです。そしてついに限界にきた。あの人なら助けてくれるだろうと思えるから助けを求めるが、誰も助けてくれそうにないと思うと助けを求めることができない。としますと、助けを求めるのも「自力」です。

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