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1月8日(火) [はじめての親鸞(その12)]

 デリダによれば、贈与は、それが交換ではなく真の贈与だとしますと、贈与として意識されることはありません。贈与する側にとっても、贈与される側にとっても。
 もし贈与する側が、これはわたしが贈与するのだと意識した途端に、もう純粋な贈与ではなくなります。「わたしが贈与する」の裏側には「相手から感謝されてしかるべきだ」の思いが潜んでいるに違いありませんから。また贈与される側が、これはあの人から贈与されたものだと意識しますと、反射的に「あの人に何かお礼をしなくちゃ」と思ってしまいます。こうして贈与が交換になってしまうのです。
 求めて与えられる愛は、求める側にとっても、それに応えて与える側にとっても、とうぜん贈与として意識されていますから、それは交換としての愛ではあっても純粋な贈与としての愛ではありません。
 さて問題は救いです。「このまま生きていていいのか」という厄介な問いに悩まされ、「なぜ生きる」に対する答えを求めたのでした。他に欠けるものは何もないのに、これだけが不足して、どうにかして手に入れたいと思ったのです。
 残念ながら救いの場合は愛の場合よりもっと絶望的です。
 愛は、純粋に贈与としての愛を望むのでなければ、ゲットできない訳ではありませんでした。でも救いは、こちらがそれを手に入れようと一歩進めば一歩退き、百歩追えば百歩逃げるのです、ちょうど自分の影を踏もうとするときのように。

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