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1月11日(金) [はじめての親鸞(その15)]

 自分で救いを手に入れようとどれほど頑張っても、ますます救いは遠のいていくのに、あるとき気がついたら救いはもうすでに届いていたのです。「こちらから」近づこうとすると、こちらが進んだ分だけ後ずさりするのに、ふと気づくと「向こうから」やってきた救いの中に包み込まれている。
 一体どうしてでしょう。
 生きるということは、自分に欠けているものを、直接にか誰かの手を介してかは別として、とにかく自分で手に入れることだと言いました。こちらから出かけていって、足りないものを獲得するということ。救いも同じように見えます。他に不足しているものはないが、救いが欠けている。だから何とかして手に入れたい。
 しかしその場合は、自分に何かが欠如しているというよりも、自分の存在そのものが欠けているのではないでしょうか。「居心地が悪い」という言い方をしてきましたが、同じことを「居場所がない」とも言います。いずれも自分の「居る」こと自体が危殆に瀕していることをあらわしています。自分の存在が透明になってきたのです(これは神戸の事件を起こした少年Aの犯行声明にあった印象的なことばです)。
 自分に欠けているものを自分で手に入れるためには、自分が居なければなりません。こちらから出かけていって、足りないものを獲得するためには、こちらに居場所がなければなりません。ところが自分の居場所がなくなりますと、それをどのようにして手に入れればいいのでしょう。居場所があってこそ、そこに不足するものを外から手に入れてくることができるのですが、居場所そのものがなくなったら…。

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