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1月13日(日) [はじめての親鸞(その17)]

 自分で救いを手に入れることはできないとしますと、もはや救いはないということでしょうか。
 いえ、決してそんなことはありません。救いはこちらから手に入れることができなくても、向こうから与えられるのです。念のために申し添えますが、こちらから求めるから与えられるのではありません。こちらが求めようが求めまいが、そんなことお構いなしに一方的に贈与されるのです。
 何を根拠にそんなことが言えるのか。
 まず、ぼくは「そのまま生きていていい」という声に現に救われています。どこからそんな声がするのかと言われるかもしれませんが、とにかく向こうから「そのまま生きていていいよ」という声がして、ぼくにはすでに救いが与えられている。
 さてそのことから、この声はぼくだけに届けられているのではなく、生きとし生けるものに与えられていると了解できます。それがぼくにだけ与えられることは、それが向こうから一方的に贈与されていることからしてあり得ません。
 なぜか。
 もしその声がぼくにだけ与えられているとしますと、ぼくとぼく以外の人たちを分ける何らかの基準あるいは条件があるということになります。しかしそれでは向こうから贈与されるのではなくなってしまいます。何らかの条件付きで与えることは贈与ではなく交換になってしまうのです。きみはかくかくしかじかの条件を満たしているからこれを与えるというのは、与えるとは言うものの実は交換しているのです。

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