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はじめての親鸞(その24) ブログトップ

1月20日(日) [はじめての親鸞(その24)]

 前に釈迦のことをお話しました。彼は救いを求めて家を出たと。そして6年にわたる苦行を経て解脱したのでした。これをどう理解したらいいのか。普通はこう解釈されます、釈迦は自力で悟り(救い)を得ることができたのだが、われら凡愚にはそんなことはできないから、仏の力に頼らなければならないと。釈迦は自力だとしても、われらは他力。
 そうじゃないということをこれからお話ししたいと思います。
 なるほど釈迦は生きること―生老病死―に居心地の悪さを感じ、これを何とかしたいと思って修行の道に入ったのでしょう。そして当時のバラモンの教えの通り、苦行(断食)という方法で解脱(居心地の悪さからの脱却)を求めた。彼は確かに救いを求めたのです。でも彼はあるとき苦行をやめます。多分行き詰りを感じたのでしょう、周りの修行仲間が驚くほど徹底してやってきた断食をやめたのです。
 釈迦は苦行によって救いを得たのではありません。苦行をやめることで救いを得たのです。これは後に「中道」の教えとして伝えられることになります。救いは苦行の道でもなく、かといって快楽の道でもなく、その中道にあると。これは一見、両極端を避けて、その中ほどを取るのが正しいと言っているように思えます。でもぼくにはもっと大事なことを言っていると思うのです。
 救いはこちらから手に入れるものではなく、向こうから与えられるものだということです。こう言っても同じです、救いは「わたし」が手に入れるのではなく「あなた」から与えられると。

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