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1月21日(月) [はじめての親鸞(その25)]

 「わたし」が救いをつかまえようとしている限り、どこまで追っかけても追いつくことはできません。つかまえたと思った瞬間、指のあいだからスルリとすり抜けてしまいます。(これはゼノンのパラドクスを思わせます。アキレスは前にいる亀に限りなく近づくことはできますが、決して追いつけません)。ところが思いもかけないときに「あなた」から与えられるのです。そのことに釈迦は気づいた。自力ではなく他力、これが釈迦の悟りではなかったでしょうか。
 何かとんでもなく非常識なことを言っていると思われるかもしれません。釈迦のことばとしてもっとも古い層(原始仏典)のどこにも「他力」にあたるようなものはないじゃないかと言われるかもしれません。でも、またびっくりさせるかもしれませんが「無我」こそ「他力」だと思うのです。
 無我とは「わたし」がないということではありません。「わたし」がないなどと言われても、どういうことなのか見当もつきません。そうではなく「わたし」にとらわれないということ、もっと分かりやすく「わたしのもの」に執着しないことです。ぼくらはいつもこれは「わたしのもの」、あれは「あなたのもの」とはっきり区別し、もし「わたしのもの」が勝手に奪われたりしますと怒り狂います。そんなふうに「わたしのもの」にとらわれないこと、これが無我です。
 釈迦自身のことばをひとつ紹介しましょう。彼はこのように言います。「(なにものかを)わがものであると執着して、動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、“わがもの”という思いを離れて行うべきである。―もろもろの生存に対して執着することなしに」(『スッタニパータ』中村元訳)。

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