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1月27日(日) [はじめての親鸞(その31)]

 生徒とつまらない諍いをしている「わたし」以外に「ほんとうのわたし」なんてどこにもいないのに、「これはほんとうのわたしではない」と思う。おぞましい授業しかできない力量なのに、「わたしにはもっと立派な授業をする力量がある」と思う。
 「わたし」ではないものを「わたし」と思い、「わがもの」ではないものを「わがもの」と思う、これが「わたし」へのとらわれであり、「わがもの」への執着です。
 先ほどこう言いました、「わがもの」を奪われたら、それが自分にとって大事なものであればあるほど怒り狂い、取り戻そうとすると。誰かに奪われたら、もう「わがもの」ではなくなっています。ところがそれを「わがもの」として執着し、何としても取り返そうとするのです。
 「わがもの」にすることと「わがもの」に執着することはやはり別のようです。「わがもの」への執着は「ひとのもの」との比較に深く結びついています。
 ある先生の「わたしは普通に授業していますよ」のひと言で傷ついたぼくは、「あの先生にできて、どうして自分はできないんだ」と彼我を比較し、「そんなはずはない、これは何かの間違いだ」と心の中で叫んでいたのです。「ぼくの力量」と「彼の力量」を天秤にかけ、「ぼくの力量」が「彼の力量」より劣っていることに「そんなはずはない」と抗っていたのです。
 ぼくらはさまざまなものを「わがもの」とするだけではなく、ひとより多く「わがもの」としようとします。ただ単に「わがもの」とすることで満足するのではなく、「わがもの」が「ひとのもの」より多いことを求めるのです。逆に言いますと、「わがもの」が「ひとのもの」より少ないことに深く傷つきます。これが「わがもの」への執着の正体のようです。

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