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はじめての親鸞(その33) ブログトップ

1月29日(火) [はじめての親鸞(その33)]

 仏教の基本用語に煩悩があります。釈迦の教えを要領よくまとめた四諦(したい)の中で、あらゆる苦しみの原因としてこの煩悩が上げられます。煩悩とは何かについて複雑な思索が積み重ねられていきますが、その核には貪欲、瞋恚(しんい)、愚痴のいわゆる「三毒」があります。
 貪欲は「わがもの」を少しでも多く得ようと貪ることであり、瞋恚はそれがかなえられないことによる怒りであり、愚痴は「わがもの」が「ひとのもの」より少ないことを愚痴ることです。いずれも「わがもの」への執着に収斂します。煩悩とは「わがもの」への執着だと言ってよさそうです。
 ぼくらはいろいろなものを「わがもの」にすることから降りることはできませんが(それは生きるのをやめることですから)、「わがもの」に執着すること、つまり煩悩から離れることはできると釈迦は言います。さてしかし、どのようにして煩悩から離れることができるか。「わがもの」を「ひとのもの」と比べて一喜一憂するのは、もうこころの奥底にこびりついていて、それから離れるなどということは不可能ではないでしょうか。
 煩悩をぼくらのこころに巣くう虫に譬えてみます。虫というのは面白いことばで、古来ぼくらの中に棲息して感情や情緒を支配していると見なされてきました。「ふさぎの虫がでた」、「腹の虫がおさまらない」、「虫の居所が悪い」など言いえて妙ですし、「虫が知らせる」というのは遠い世界と交信する神秘的な力をうかがわせます。
 貪欲、瞋恚、愚痴も虫になぞらえたいと思うのです、「欲しがり虫」、「怒り虫」、「愚痴り虫」という具合に。これらの虫がもぞもぞとうごめき出しては、ぼくらを貪らせ、怒らせ、愚痴らせる。じっと大人しくしていればいいのですが、何かの拍子にひょいと顔を出しては悪さをするのです。

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