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2月2日(土) [はじめての親鸞(その37)]

 問題はぼくらのこころの中にあるのではなく、社会の方にある。この発想はある意味でぼくらをホッとさせてくれます、ぼくらが悪いのではなく、社会が悪いのですから。だからこの悪い社会を変えよう、みんな力を合わせて闘おうという方向が出てきます。実際「胎児条項」という悪法に対してみんなが立ち上がり、それを廃案に追い込んだのです。
 さてしかし森岡氏はここでもまだ立ち止まりません。彼は社会のあり方を変えていく必要を十分認めた上で、もし、と言うのです。もし、障害者が生きていく上で何の支障もない社会が生まれたとしよう、障害児に生まれたとしても、他の子どもたちと全く同等に生きていけるような社会になったとしよう、で、どうなるか。
 それでもぼくらのこころの中に「自分の子どもは五体満足であってほしい」という願いは依然として残り、選択的中絶は続くのではないかと森岡氏は言います。いかがでしょう、ここまできますと、意見が分かれるかもしれませんが、ぼくは森岡氏の言い分に軍配を上げたいと思います。社会のあり方にかかわらず、五体満足な子どもを願う気持ちは残ると思うのです。
 森岡氏は自分の「内なる優生思想」をじっと見つめながらこう言います、「われわれが目指すべきものは、いったい何なのか。選択的中絶に関して言えば、生まれてくる子どもに障害があっても、障害がなくても、どちらでもいいと、心底思えるようになることである」と。こう書いているときの森岡氏はインドの苦行僧のような顔をしていたのではないかと想像してしまいます。彼は煩悩をどうにかして消し去らねばならないと考えているようです。しかしぼくらに煩悩から解脱する力があるのでしょうか。

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