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2月12日(火) [はじめての親鸞(その47)]

 ぼくは老人に1000円を与えたのですが、何か見返りを求めたのでしょうか。彼の歌が欲しかった訳ではありませんし(亡き母を想う陳腐な歌です)、見ず知らずの彼の歓心を買う必要もありません。ならば、どうしてお金を出したのか。
 「結構です」と扉を閉めるのがためらわれたのです。冷たい雨の降る街に追い返すのができなかったのです。あとあとそのことで心が痛むのがいやだったと言うべきでしょうか。つまり、ぼくは1000円で心の平安を買ったのです。これは見返りとして十分です。ぼくは心の平安という見返りを期待してお金を与えたのです。ぼくらの「与える」というのは所詮このようなものではないでしょうか。
 どうして「わたし」へのとらわれ、「わがもの」への執着から離れることができないかということを、今度はデカルトの思索を参考にしながら別の道筋でもう一度考えてみようと思います。
 デカルトは、これはもう確かなことだと言えるものを見つけようとしました。それがなければどんな学問も砂上の楼閣で、基礎がグラグラしていますから、その上に乗っかっている建物はすべて不安定です。ですから、ひとつでもいい、その上にしっかりとした建物が建てられる確かな岩盤を探そうとしたのです。さてしかしそのような岩盤をどうすれば見つけられるか。
 彼は自分が知っていると思っていることがらを洗いざらい疑ってみようとしました。自分のもっている知的財産を一つひとつ点検して、少しでも疑わしいものは一旦捨ててみよう。その作業の果てに、これはもうどんなに疑っても疑いきれないと言えるようなものが残るのではないか。それこそ求めていたもので、それを土台としてしっかりした建物を建てることができる。

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