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2月13日(水) [はじめての親鸞(その48)]

 この疑いの作業の果てにデカルトが見つけ出したのが「疑っているわたし」でした。ありとあらゆることを疑い、疑いつくして、そこに残ったのが「疑っているわたし」でした。あれもこれもすべて疑わしい。しかしすべて疑わしいと思っている自分がいることだけは確かだ。「疑っているわたし」がいることも疑うことはできるが、そこには再び「疑っているわたし」がいるではないか。これがデカルトの結論でした。彼はこれを土台として堅固な建物を建てられると考えました。
 近代哲学は「疑い」からはじまったということ、そしてすべてが「疑っているわたし」という土台の上に構築されているということ、これは何か大事なことを示唆しているような気がします。
 さて、デカルトは「疑っているわたし」を土台として、疑いの過程で一旦壊してしまった知的財産をもう一度その上に再建していこうとします。まず神の存在、そして世界の存在と。しかし、ここでその筋道を追うことはできませんが、そのときの彼の手つきは非常にあやしげと言わざるをえません。ぼくには到底ついていくことができません。
 「疑っているわたし」の堅固さには目をみはるものがあります。しかし残念なことに、そこから一歩も外へ出ることができないように思うのです。もうどんなことがあっても崩れることがない土台だけはあるが、肝心の建物を建てることができない。あるいは何重にも囲まれた堅固な城があり、もうどんな敵もそれを落とすことはできないが、悲しいかな、その城の外へは一歩も出られない。そんなイメージです。

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