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2月17日(日) [はじめての親鸞(その52)]

 「わたし」へのとらわれが煩悩でした。それは「わがもの」への執着であり、「わがもの」と「ひとのもの」を比べて一喜一憂することでした。あるいは、見返りのないところではひとに「わがもの」を与えることができないということでもありました。「わたし」と「わがもの」にしがみつく、これが煩悩です。それをデカルトの「疑っているわたし」を手がかりに、「わたし」の内部に閉ざされていることとして考えてきました。
 しかし「わたし」の外に出るというのはどういうことでしょう。そんな言い方をしますと、何か幽体離脱のようなイメージが漂いますが、ぼくにはそうした心霊主義的な趣味はありません。「わたし」はどこに行っても「わたし」で、「わたし」から離れる訳にはいきません。「われを忘れる」ことはありますし、「自分を見失ってしまう」こともあるでしょうが、それはあくまで一時的、例外的なことで、だからこそ特別にそんな言い回しがあるのでしょう。普通は「われを忘れる」ことはありませんし、「自分を見失う」ことなく生活しています。
 引きこもりの青年が外に出られないというのも、自分の部屋から出られないということで、「わたし」から出られないということではありません。「わたし」から出てしまったら、どこへ行ってしまうのでしょう。彼は自分の部屋から出られなくて苦しんでいるのですが、どうして出られないかと言いますと、外には彼の心をズタズタにしてしまう敵がいっぱい待ち受けていると思うからです。彼は、ですから、「わたし」と「わがもの」を守るために部屋に閉じこもっているのです。
 守るということ、これが鍵を握っているようです。


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