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2月19日(火) [はじめての親鸞(その54)]

 では、ぼくらは内部とは何かを知らないまま内部に閉ざされ、しかもそこにしがみついて生きていくしかないのでしょうか。
 そのことに居心地の悪さを感じさえしなければ何の問題もありません。集中治療室に入れられた末期患者が、全く痛みを感じないようにコントロールされ、快適な室温の中で呼吸も栄養も自動的に調整されているとしましょう。その状態に居心地の悪さを感じなければ、ぼくらが温かい布団の中でまどろんでいるのと何も変わりありません。しかし、その状態が耐えがたく居心地が悪ければどうでしょう。何とかしてその居心地の悪さから抜け出ようとするに違いありません。
 しかしどのようにして?
 これまで、「このまま生きていていいのだろうか」と、生きていること自体に居心地の悪さを感じている人が、この世に居場所を得て「やれやれ、もう少し生きていけそうだ」と安心する、これが救いだということ、そして生きることに居心地の悪さを感じさせているのは煩悩の虫どもであることを見てきました。
 「わたし」にとらわれ、「わがもの」にしがみつかせる、これが煩悩の虫どもです。いつも「わがもの」と「ひとのもの」を見比べ、多い少ない、勝った負けたと一喜一憂させる。これが煩悩の虫どもです。この虫どもを一掃できれば、もう生きることに居心地の悪さを感じなくてもすみます。
 しかし、どうやら生きることそのものがこの虫どもと結びついているようで、この虫どもを一掃することは生きることを一掃することになりそうです。「わたし」の中に虫どもが棲んでいるというよりも、「わたし」自身がその虫どもに他ならない。としますと、虫どもを一掃することを「わたし」ができるわけがありません。

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