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はじめての親鸞(その59) ブログトップ

2月24日(日) [はじめての親鸞(その59)]

 自力は前にある目標に向かっていますから、「これから」という性格を帯びます。「これから何かを手に入れようと思う」のです。それに対して他力には「もうすでに」という性格があります。気がついたらもうすでに与えられていたのです。救いの本質はここにあります。「気がついたらもうすでに救われていた」ということ、これが救いです。ですから難しいも易しいもありません、これから手に入れるのではなく、もうすでにその中にあるのですから。ただそれに気づくかどうか、それだけです。
 気がついたらもうすでに「あなた」から救いが与えられていたと言う場合の「あなた」は、「わたし」が何かをしようとして力を借りる「あなた」とは全く違う「あなた」です。神や仏のことを言っているのではありません、すぐ隣にいる「あなた」です。でも「わたし」が何かをしようとするとき「ちょっとあなたの力を貸してください」と頼む「あなた」と、「あなたから救いが与えられた」というときの「あなた」は、全く違う「あなた」です。同一人物であっても一向にかまいませんが、でも全く違う「あなた」なのです。
 「あなた」とは誰でしょうか?
 「このまま生きていていいのだろうか」と居心地の悪さを持てあますとき、どれだけ自分に「このまま生きていていいんだ」と言い聞かせても何にもなりません。誰かに「そのまま生きていていいよ」と言ってもらうことが必要です。たったひと言そう言ってもらうだけで居心地の悪さから救われるのです。そう言ってくれるのが「あなた」です。「われあり」のためには「われ思う」で十分です。でも救いには「われ思う」では不十分で、「あなた」が必要なのです。


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