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2月25日(月) [はじめての親鸞(その60)]

 ある日突然盲目になったと想像してみてください。さまざまな訓練を受けて外に出られるようになり、白い杖を頼りにそろそろと歩き始めましたが、誤って杖を誰かの足に当ててしまったようです。「あっ、ご免なさい」と謝りましたが、どうしたことか何の反応もありません。あれ、確かに誰かの足だと思ったけど、と思いながらまたそろそろと歩き出し、今度は誰かにドスンとぶつかってしまった。「あっ、すみません」と言いましたが、またもや何の返事もない。そんなときどんな気持ちになるでしょうか。
 目が見えれば、杖を当てた相手や、ぶつかった人の表情を見ることができますから、その人たちがどう思っているかを判断するのはそれほど難しくないでしょう。不愉快に思っているか、それともそんなに気にしていないかは直ちに分かるでしょう。でも耳だけが頼りなのに誰からも応答がない。これは何とも言えず不安な状況ではないでしょうか。ひょっとしたら「邪魔なヤツだ、引っ込んでろ」と思われているかもしれないと思うと、そのまま外出を続ける気力がなくなります。そんな時「気にしなくていいですよ」のひと言がどれほど有難いか。そのひとことで、人に迷惑をかけなきゃ生きていけないけど、これからも生きていこうという勇気が与えられます。救われるのです。
 何も応答がなくても、自分がいることは確かです。あれこれ心配している自分がいることは間違いありません。「われ思う、ゆえにわれあり」です。でも、それだけでは救われない。「あなた」にたったひと言「そのまま生きていていいよ」と言ってもらってはじめて救われるのです。「あなた思う、ゆえにわれ救われり」です。「そのまま生きていていいよ」と言ってくれるのが「あなた」です。

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