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2月26日(火) [はじめての親鸞(その61)]

 「あなた」にたったひと言「そのまま生きていていいよ」と言ってもらうだけで救われるのですが、そのひと言をどれほど言ってもらいたくても、それを誰かに頼むことはできません。たとえ誰かがその頼みを聞いてくれたとしても、何の意味もありません。それでは自分に向かって「このまま生きていていい」と言っているのと何も変わらないからです。「そのまま生きていていい」という声ばかりは求めて得られるものではありません。ところが、ふとその声が聞こえてきて救われる。どこから聞こえるのだろうと振り返ってみて、そこに「あなた」がいることに気づくのです。
 与えてくれるよう求める「あなた」と、求めないのに与えてくれる「あなた」。
 少し違う角度から眺めてみましょう。少し前、V.フランクルの『夜と霧』を読み直しました。新版が出たという新聞広告につられて、もう一度読んでみようかと思ったのです。で、読んで驚きました。学生時代に読んだときは、ナチスの強制収容所の余りに非人間的な状況に圧倒されて、肝心のフランクルのメッセージがちっとも読み取れていなかったことに気づいたのです。一通り読んで分かったつもりになるのは大変な間違いであることを思い知らされました。
 フランクルのメッセージとは何か。
 1944年の冬のことです。どうしたことかクリスマスの前後におびただしい数の囚人が亡くなりました。厳しい寒さのせいでも、極端に悪い食糧事情のせいでもなく、ただ「クリスマスまでには帰れる」という希望が無惨にも打ち砕かれたからです。多くの囚人は今年のクリスマスまでには連合軍がやってきて家に帰れるという淡い希望を持っていたのでしょう。

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