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3月3日(日) [はじめての親鸞(その66)]

 よく「信じれば救われる」と言います。これは将来のことを信じることができれば、いま安心して生きることができるという意味です。しかし将来のことをそうたやすく信じることはできません。将来のことを信じるときは、自分と信じることとの間にどうしても「ひょっとしたら」というすきま風が吹き込むからです。でも、いますでに救われていることに気づきますと、そこに深い喜びが湧き上がり、将来のことを信じ続けることができるのです。
 もう一度アウシュビッツの囚人に戻ります。彼らは将来を信じることでいまを耐えることができたのでしょうか。「いつか必ず家に帰れる」と信じ、その希望にすがって地獄のいまを生き抜いたのでしょうか。そう思えます。希望こそ生きる力です。しかし問題はどうして彼らが希望を持ち続けることができたかということです。目に入ってくるのは希望を打ち砕くような事実ばかり。希望と不安は一卵性双生児です。不安を払いのけて希望を持ち続けさせたものは何か。「あなたが待っていてくれる」ことの気づきです。そこから湧き上がる喜び、これがすべてを投げ出したくなるような境遇の中で「もう少し希望を持ち続けよう」と思わせてくれたのです。
 としますと、「いつか必ず帰れる」と将来を信じるからいまを耐えることができるにしても、将来を信じることができるのは「あなたが待っていてくれる」と気づいているからです。将来が信じられるからいまが信じられるように見えますが、実は、いまが信じられるから将来が信じられるのです。「あなたが待っていてくれる」と思えるから、「いつか必ず家に帰れる日が来る」と希望を持ち続けることができるのです。

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