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3月6日(水) [はじめての親鸞(その69)]

 隠しているものをわざわざ曝け出すことはありませんが、隠しているうちに、そのことをすっかり忘れてしまうことがあります。そうしますと「お金なんて大した問題じゃない」というたてまえのことばに何の痛みも感じなくなります。
 でも、ぼくらの中には紛れもなく「安定したいい生活がしたい」という思いが渦巻いています。もっと端的に言いますと「お金が欲しい」という思いです。そんな思いを抱えながら、同時に、困っている人を助けてあげたいという思いもある。この二つの思いの狭間で生きていることを忘れてはいけないと思うのです。
 ちょっと寄り道しましたが、本道に戻ります。
 こちらに「俗」の領域(暮らし)、あちらに「聖」の領域(宗教)というように分けて、自力と他力を割り振ることはできないようです。では「する」と「いる」の区別はどうでしょう。「する」は自力で「いる」は他力というように割り振るのです。
 「する」と言いますのは、文字通り、ぼくらが日々していることです。ぼくはいま机の前に座って、目はパソコンの画面に向かっていますし、手の指はキーボードをしきりに叩いています。生きることはこうしたこまごました「する」ことで覆いつくされているようです。
 では生きることは「する」ことに等しいのでしょうか。いいえ、ぼくらが何を「する」にせよ、そのためにはこの世に「いる」ことが必要です。「いる」ことの上に「する」ことが成り立っています。ですから、生きることには「する」ことだけでなく、その前提条件としての「いる」ことも含まれています。

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