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3月9日(土) [はじめての親鸞(その72)]

 こんなふうに言うこともできます、「する」ことには「わたし」が先立っているが、「いる」ことは「わたし」に先立っていると。まず「わたし」がいて、しかる後に何かを「する」のに対して、まず「いる」があって、しかる後に「わたし」がいます。「する」ことには必ず主語があります。誰かが何かを「する」のです。でも、「いる」ことは、それが誰であるかに先立っています。もちろん「いる」ことに気づいたとき、気づいた誰かがいるのですが、誰かが気づくのに先立ってすでに「いる」のです。
 「する」ことは常に意識されています(無意識に何かをすることもありますが、そんな場合何かを「する」とは言いません)が、「いる」ことは意識されないのが普通です。ぼくらの意識は「する」ことに忙しく、「いる」ことにはなかなか向かないのです。ぼくはいまキーボードを叩くことを意識しています。ぼくの意識はキーボードを叩くことに向かっています。意識はもちろんそうしている自分にも向かいますが、その自分とはキーボードを叩いている自分、つまり「する」自分です。「いる」自分ではありません。
 突然ですが、デカルトの「われ思う、故にわれあり」を絵に描いたらどうなるでしょう。
 ロダンの「考える人」のように、誰かが何かをじっと考え込んでいる絵柄が浮かんできます。この絵には何かをじっと考え込んでいる「われ」が描かれていますが、この「われ」は考えている自分、つまり「する」自分です。さて、この絵はカンバスに描かれていて、このカンバスがなければ絵そのものが存在できません。何かを考えていること、何かを考えている自分がいること、それらすべてがこのカンバスに支えられています。このカンバスが実は「いる」自分です。絵の中の「われ」は、カンバスとしての「われ」に支えられているのです。

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