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3月13日(水) [はじめての親鸞(その76)]

 そのころ同僚と交わした論争を思い出します。ぼくらが勤める高校は一時期かなりひどい「荒れ」に見舞われたのですが、それに対してみんなが文字通り一丸となって立ち向かい、幸いなことに数年後には落ち着きを取り戻すことができました。落ち着きを取り戻した後に、一人の同僚が波乱に満ちた時期を総括した文章を書いてぼくに見せてくれました。彼は健筆家であると同時に一家言を持つ人で、これまでも往復書簡という形で論争を交わしたことがあるのですが、その文章にも彼一流の考えが溢れていました。
 どうして学校崩壊のような現象が起こるのか、彼はこんなふうに論を進めます。学校崩壊の原因を一概に言うのは難しいが、「“個性尊重”とか“自ら考え自ら学ぶ”とか“ゆとり”とかいうような教育方針」が力を貸してきたのではないか、と。つまり、「大人として成長する方向に子供を伸ばそうとするのではなく、子供のありのままに大人側(学校側)を引き寄せようとしてしまった」。「“子供のあるべき姿”から発想するのではなく、“子供のあるがまま”に合わせようとした」。「“子供中心に教育を考える”という物言いは、いかに美しい教育観に見えても、“あるがままの子供”をひたすら肯定しようとするものである限り、子供を堕落させてしまうのである」。
 ここから彼は「規範意識」の再建を主張します。「自由」や「個性」ではなく「規範」こそこれからの教育に必要なのだと。「あるがまま」を大事にしすぎて「あるべき」が疎かになってしまった、これが今日の教育の困難をもたらしている、という彼の論は刺激的で、ぼくはまた筆を取っていました。ぼくの論点は「あるがまま」と「あるべき」とは決して二律背反ではないというところにあります。

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