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3月14日(木) [はじめての親鸞(その77)]

 更新が遅れました。ぼくと同僚の論争です。
ぼく:「果たして“あるがまま”と“あるべき”とは、あなたが言われるように矛盾する関係だろうか、というのが ぼくの基本的な疑問です。むしろ、自分の“あるがまま”が深いところで受け入れられていると感じられるところから、はじめて“あるべき”が本当の意味で動き出すのではないだろうか、と考えるのです。逆に、“あるがまま”が否定されているという絶望から、もうどうなってもいいという自堕落や、あるいはリストカットに象徴される自己破壊衝動が生まれるのではないか。敢えて挑戦的に言いますと、ぼくは今日の教育の困難の多くが、あなたが言われるように、“あるがまま”の肯定から生まれているのではなく、むしろ逆に“あるがまま”の否定からもたらされているのではないかと考えているのです。」
同僚:「どうもわたしの“あるがまま”と、あなたの“あるがまま”とがズレているような気がします。お聞きしますが、あなたは本当に“あるがまま”を肯定することによって、もうどうなってもいいという自堕落に陥ってい る子供たちを救済できるとお考えですか。あの荒れた連中に対して“そのままでいいのだよ”とか、“きみはきみの好きにやっていいのだよ”とか本当に言えますか。」
ぼく:「いや、ぼくは彼らに“そのままでいいのだよ”とは口が裂けても言いません。彼らには“あるべき”高い壁を突きつけるでしょう。リストカットをしようとしている生徒を見つけたら、“きみはきみの好きにやっていい”と見過ごすことは絶対にしないと思います。すぐナイフを取り上げ、“ばかなことをするんじゃない”と叱るでしょう。当たり前のことです。あるいは、荒れた生徒のやりたい放題にも“そのままでいい”と放置することはないでしょう。ぼくの性格の弱さから軟弱な対応になってしまうかもしれませんが、少なくとも“そのままでいい”と言うことはありません。これまた当たり前です。そういう意味では、あなたとぼくとで現状に対する処方箋にそれほど大きな違いはないはずです。本校の悲惨な現実を共に生きてきた人間として多分共通の認識を持っていると思います。ではどこが違うのか。それは、彼らが何故“荒れる”のかという点に関わります。」

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