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3月16日(土) [はじめての親鸞(その79)]

 「する」ことは自力だが、「いる」ことに安心するには「あなた」の声が、他力が何としても必要だということを述べてきました。
 ここから言えるのは、こちらに自力の世界、あちらに他力の世界という具合に都合よく分けることはできないということです。ここからここまでは「する」ことで、ここからここまでは「いる」ことというように分けることはできないからです。「する」ことは必ず「いる」ことを前提とし、「いる」ことは必ず「する」ことを伴っています。コインの表と裏のようなもので、両者を引き剥がすことはできないのです。
 ですから一方に自力の世界、他方に他力の世界があるわけではありません。男の世界と女の世界があり、子どもの世界と大人の世界があるように、自力の世界と他力の世界があるわけではありません。ある人は自力の世界に生きており、ある人は他力の世界に生きているというようにはなっていないということです。ぼくらは自力の世界にどっぷり浸かりつつ、同時に他力の世界に包まれているのです。
 そしてふたつ目に、「いる」ことは「する」ことのすべてが可能となる場所ですから、自力は他力の上に成り立っていると言えそうです。「わたし」は「あなた」に生かされているのです。少し前に読んだ本が印象に残りました。ある韓国の学者が、日本人は非常に深い宗教性をもっていて、それを一番よく表しているのが童謡「夕焼け小焼け」の歌詞だと言われたそうです。

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