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3月19日(火) [はじめての親鸞(その82)]

 第4章 「願い」
 さて、そろそろ親鸞その人について語らなければなりません。これまで、救いは「わたし」が自分で手に入れることはできず、それは「あなた」から思いがけず与えられるということをさまざまな角度から見てきました。親鸞はそのことを浄土思想、念仏思想という形で突きつめた人です。あるいは「他力」ということをとことんまで考えた人と言っても同じです。
 現代哲学の最大のテーマは「他者」だと言っていいでしょう。他我(他のわれ)ではありません、他者です。他我とはお互いに了解可能な「われわれ」のことですが、他者はこちらから了解することを頑なに拒む存在です。近代哲学の射程は他我まででしたが、現代哲学が問題とするのは異者としての他者です。親鸞の他力と現代哲学の他者との親縁関係は明らかです。
 まずは「願い」ということから始めましょう。浄土の教えの特徴は何と言っても「阿弥陀仏の願い」を説くところにあります。それを本願と言いますが、さて本願とは何かを語ろうとしますと「阿弥陀仏って何?」という大問題にぶつかります。しかし、それをここで述べることはできません。とりあえずは仏のひとりとしておいてください。「では仏って何だよ?」と追ったてないでいただきたい。一度にすべてを語ることはできません。
 そこで最初に「願い」に注目したいのです。浄土の教えを説く『無量寿経』という経典は一風変わっていまして、「阿弥陀仏の願い」を説いています。経典にはそれぞれのスタイルがあるでしょうが、まあ普通は釈迦の「悟り」について説くものです。例えば一番親しまれている『般若心経』は、釈迦の悟りの真髄を「色即是空(存在するものは空であって実体ではない)」という形に簡潔にまとめたものです。

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