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3月23日(土) [はじめての親鸞(その86)]

 事実は「ある時ある所で起こる」のに対して、真実は「いつでもどこでも起こる」。
 親鸞が法蔵菩薩の物語から「そのままで救われている」という真実を届けられた時、そこで法蔵菩薩の誓願が起こっているのです。ぼくが法蔵菩薩の物語を聞いて、「そのままで救われている」という真実を感じた時、そこで法蔵菩薩の誓願が起こっているのです。だからこそ法蔵菩薩の物語を信じることができるのです。ですから誰かがぼくに「法蔵菩薩の誓願なんてただの御伽噺じゃないか」と言ったとしても、「御伽噺でも一向に構わない」と答えるでしょう。
 さて『無量寿経』の教えというのは阿弥陀仏(法蔵菩薩はその誓願が成就して阿弥陀仏になります)の願いを中心に展開しているのだということがお分かりいただけたでしょうか。この願いということ、願うということに思いを潜めてみたいのです。
 ぼくらは日々さまざまな願いを持って生きています。いや、生きるということは願うことに他ならないと言ってもいい。ぼくらはそもそも「生きんかな」と願っています。この願いがあるからぼくらは生きているのです。
 「はじめに」で、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うた高校生のことを持ち出しましたが、彼の中にそんな問いが浮かび上がったということは、彼自身の「生きんかな」の願いが希薄になってきたからに違いありません。自分が「生きんかな」と思わなくなりますと、他の人が「生きんかな」と思うのもどうしてか分からなくなり、ついには「なぜ人を殺してはいけないのか」分からなくなるのです。

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