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3月24日(日) [はじめての親鸞(その87)]

 さて、ぼくらの「生きんかな」の願いは、あらゆる人の(いや、人に限らず、生きとし生けるものの)「生きんかな」の願いと直結しています。
 大学生だった頃のベトナム戦争を思い出します。硝煙が漂うサイゴン(今はホーチミンと言いますが)の路上に、捕まえられた解放戦線のゲリラ兵が後ろ手に縛られ目隠しをされて座らされています。そこへ南ベトナム政府軍の将校が近づき、何も言わずに腰のサックからピストルを取り出したと見るや、ゲリラの後頭部に一発ぶっ放したのです。その瞬間哀れなゲリラの身体は前後に波打ち、そのままゆっくりと前に崩れていきました。それをテレビで見ていたぼくの身体もガクンと前後に波打ちました。
 その時、こんなことがあってはいけないと思い、ぼくは反戦デモに加わるようになりました。
 もうひとつ思い出すのは、これまた学生時代に見た映画のことです。この間亡くなりました大島渚監督の『絞死刑』という映画で、細部はほとんど忘れましたが、脳裏にこびり付いて離れないのが、絞首刑執行の場面です。目隠しされた死刑囚が刑務官に付き添われ刑場に連れてこられます。そして天井からぶら下がったロープの輪に首を入れられ準備完了。ほどなく床が観音開きにパカンと開き、死刑囚の身体は数メートル落下します。そしてロープがピーンと張った瞬間、死刑囚の首がものすごい力で締め上げられるのです。そのリアルなシーンを見ていたぼくの身体も床から数メートル落下し、ぼくの首にものすごい力が加わったように感じました。
 そして、ぼくはこんなことがあってはいけないと思い、以来ぼくは死刑反対の立場に立つようになりました。

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