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3月30日(土) [はじめての親鸞(その93)]

 以前ユニセフにわずかばかりのカンパをしたことがあります。
 飢餓に苦しむ子どもたちにせめてお金で援助して上げたいと思ったからです。そうしますと、少ししてまた同じ趣旨の手紙が届きました。それだけ状況は厳しいのだろうともう一度カンパを送りました。ところが、またまた同じ手紙が来るではありませんか。こう度々同じ手紙が舞い込みますと、一体どこまで続くのかと不安な気持ちになってきます。「みんなの幸せ」と「ぼくの幸せ」とが軋みはじめるのです。
 これがぼくらの願う「みんなの幸せ」の正体です。
 一方、阿弥陀仏の願いである「みんなを幸せに生かせてあげたい」の「みんな」には阿弥陀仏は入っていません。これがぼくらの願いと阿弥陀仏の願いの違いです。
 さて阿弥陀仏の願いは四十八あるのですが、その中心に来るのが第十八番目の願い(これを特に本願といいます)です。それはこんな内容です。「一切衆生が、わたしの願いを信じて、わたしの国に生まれようと思い、わたしの名を十回も称えて、必ずわたしの国に生まれるようにしたい」。
 これは次のように訳されることがあります、「一切衆生が、わたしの願いを信じて、わたしの国に生まれようと思い、わたしの名を十回も称えれば、必ずわたしの国に生まれるようにしたい」と。
 そう違わないように見えるかもしれません。しかし実はここに重大な落とし穴があるのです。

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