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4月7日(日) [はじめての親鸞(その101)]

 救いにも門があるとしますと、それはいつも前にあり、日々それをくぐり続けなければなりません。それをくぐるのは容易く誰でもできることであるとしても、くぐろうと思わなければ絶対くぐれません。ある日、もう門をくぐるのをやめようと思ったら、それですべては終わってしまうのです。
 このように救いに門があると捉える限り、絶対的な平等はありません。門をくぐるかくぐらないかで、救われる人と救われない人に分かれるからです。としますと、絶対平等な救いがあるとしますと、そこには門がないということです。
 「大道無門」ということばがありますが、救いという大道には門がないのです。
 救いという大道に門がないということは、門をくぐった向こうに救いがあるのではなく、大道そのものが救いだということです。「これから」救われるのではなく「もうすでに」救われているということです。
 さてしかしそうしますと「一切衆生をひとりも漏らすことなくわたしの国に生まれさせたい」という第十八願の内容との間に齟齬が生じます。「わたしの国に生まれる」のは明らかに「これから」のことだからです。
 「わたしの国」を「浄土」と言い、「浄土に生まれること」を「往生」と言います。そしてそれは「これから」のこと、いのち終わって後のことです。これは浄土の教えの要です。今生で煩悩から解脱し仏となることを目指すのが自力の聖道門であるのに対して、来生に往生して仏となることができるとするのが他力の浄土門。この区別をあいまいにすることはできません。としますと救われるのは「これから」で、「もうすでに」救われているなどと言うことはできません。

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