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はじめての親鸞(その102) ブログトップ

4月8日(月) [はじめての親鸞(その102)]

 そこで『無量寿経』のもう少し先を読んでみましょう。法蔵菩薩が四十八の願いを立てられ、それらの願いが成就するまで仏とならないと誓われたというところまで見ましたが、その少し先で、法蔵菩薩はもうとうの昔に(十劫の昔に)阿弥陀仏となられたと書いてあります。ということは法蔵菩薩の願いは成就されたということです。一切衆生をひとり残らずわたしの国に生まれさせたいという願いがかなったということです。これは何を意味するか。
 衆生が実際に往生するのは「これから」でも、往生することは「もうすでに」決まっているということです。
 カルヴァンの予定説を思い出します。彼によれば、人は救われて天国に行くかそれとも地獄に堕ちるかは神によって予め定められています。天国や地獄に行くのは「これから」ですが、どちらに行くかは「もうすでに」決まっているのです。カルヴァンの場合は天国に行く人と地獄に堕ちる人に分かれるのに対して、『無量寿経』の場合は一切衆生がもれなく浄土へ往生できるという点で異なりますが、それが「もうすでに」決まっているということでは同じ構造です。
 ここで反論が予想されます。「一切衆生が往生することがもうすでに決まっている」などとどうして言えるのかという反論です。
 もう一度、第十八願に戻りますが、「一切衆生が、わたしの願いを信じて、わたしの国に生まれようと思い、わたしの名を十回も称えて、必ずわたしの国に生まれるようにしたい」の、「わたしの願いを信じ」ること(信心)、「わたしの国に生まれようと思」うこと(欲生)、「わたしの名を十回も称え」ること(念仏)と、「わたしの国に生まれるようにしたい」こととの関係をどう捉えるか。

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