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はじめての親鸞(その103) ブログトップ

4月9日(火) [はじめての親鸞(その103)]

 もし信心と欲生と念仏の三つが往生の条件でしたら、一切衆生の往生が「もうすでに」決まっているなどと言うことはできません。その三条件を満たしてはじめて往生できるのです。しかし、前にみましたように、法蔵菩薩は信心と欲生と念仏とともに往生を願っているのですから、そしてその願いが成就された以上、一切衆生の往生は「もうすでに」決まっていることになります。
 浄土に往生するというのは煩悩から解放されることですから、それはこの世が終わってからということにならざるを得ません。ぼくらの中に煩悩の虫がいるというより、ぼくらが煩悩の虫なのですから、生きながら煩悩から解放されることはありません。しかし、いまは煩悩の内部でもがいているが、煩悩には外部があるということに気づきますと、それで煩悩への囚われから解放されます。煩悩から解放される訳ではありませんが、煩悩に囚われることから解放されるのです。
 これが「もうすでに」往生が決まっているということです。往生するのは「これから」でも、往生することが「もうすでに」決まっている。これは「もうすでに」救われているということと同じではありませんか。かくして第十八願とその成就は、一切衆生が「これから」往生できることを約束することで「もうすでに」救われていることを明らかにしてくれました。
 しかしそれにしてもどうして阿弥陀仏は、ただ「一切衆生をわたしの国に生まれさせてあげたい」と願うだけではなく、「わたしの願いを信じて、わたしの国に生まれたいと思い、わたしの名を十回も称えるようにしてあげたい」と願うのでしょうか。

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