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4月12日(金) [はじめての親鸞(その106)]

 左側に疑わしいものを入れる箱を、右側には信じられるものを入れる箱を置きます。で、一つひとつ手にとって点検し、はい、これは疑わしいと左の箱にポンと投げ入れ、はい、これは信じられると右の箱に投げ入れる。結果は左と右に分かれますが、やっていることは同じ操作です。ひよこを手に取り、はい、これはオス、はい、これはメスと、手際よく分別していく様子をテレビで見たことがありますが、あれと同じで、何かを基準にして疑わしいか信じられるかを分別するのです。
 これが信じるということでしたら、疑うことと信じることは同じ平面上にあって、疑うか、さもなければ信じるという背反関係にあります。どちらとも言えないグレーゾーンはあるでしょうから、左の箱と右の箱の中間にどちらとも決めかねるものを入れる箱を用意する必要があるかもしれません。でもそれはどちらにもこころが決まらないからであって、「疑わしいけれども信じる」というようなことはありません。いや、あってはいけません。一方で疑いながら同時に信じるというのは矛盾を犯すことです。
 しかし、前にも一度引きましたが、『歎異抄』にこんなことばが出てきます、「念仏がほんとうに救いへの道なのか、それともひょっとしたら地獄への道なのか、全く持って知りません。たとえ法然上人にだまされて地獄に堕ちたとしましても、ちっとも後悔しません」と。これは「念仏して浄土へ行けるかどうかは疑わしい。ひょっとしたら法然上人に騙されているのかもしれないが、それでも私は構わない」と言っているのですから、「疑わしいけれども信じる」ということです。

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