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4月16日(火) [はじめての親鸞(その110)]

 ふと本願の声が聞こえて、こころは喜びに満たされる。これが親鸞の「信じる」です。改めて普通の「信じる」との違いを考えてみましょう。
 誰かの言うことが正しいかどうかを確かめようとするのはごく自然なこころの動きです。いろいろ調べてみて、まあ間違いはないだろうと確認できて、はじめてそれを信じることができます。それをしないで闇雲に信じるのは、ぼくらを破滅に導きます。友人が、すぐ返すからお金を貸してくれないかと言ってきた時、「すぐ返す」ということばは本当かどうかを確認しなければなりません。彼の言うことは信用できるかどうか、返す目途はあるのかどうかなど、これまでのことを思い返しながら確かめようとするでしょう。
 本願のことばも、それが本当かどうかを確認しなければならない、そうでなければ信じることができないというのも自然なこころの動きです。でもこの「信じる」と親鸞の「信じる」とは、そのベクトルの向きが逆さまです。それが本当かどうかを確認した上で「信じる」場合は、こちらから信を与えています。しかし、たとえ騙されてもいいから「信じる」場合は、向こうから信を与えられているのです。
 「与える信」と「与えられる信」。
 前者はこちらから相手のことばをキャッチしようとします。そしてそのことばに信用を与えるのです。この場合、信じる人と信じられる何かがあります。ぼくが友人を信じてお金を貸すとき、信じるのがぼくで信じられるのが友人です。ぼくが彼をなぜ信じられるかと言うと、長い付き合いの中で、ぼくを騙すような人間ではないと思うからです。ぼくが彼に信を与える、これが「与える信」です。ですから騙されたらとても悔しい。
 では「与えられる信」は?

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