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はじめての親鸞(その112) ブログトップ

4月18日(木) [はじめての親鸞(その112)]

 親鸞は『一念多念文意』という書物の中で、『無量寿経』に出てくる「歓喜踊躍」ということばを次のように丁寧に解説してくれます。「歓喜踊躍…といふは、歓喜は、うべきことをえてむず(得るべきことを得ることができた)と、さきだちてかねて(前もって)よろこぶこころなり。踊は天におどるといふ。躍は地におどるといふ。よろこぶこころのきわまりなきかたちなり」と。
 ここで「うべきこと」とは言うまでもなく往生のことですから、これから先の話です。それを「えてむず」と喜ぶと言うのです。「かねてさきより」喜ぶと言うのです。「これから」得るはずのことを、前もって「ただいま」得てしまったと喜ぶ。先ほどは「いま」と「すでに」が結び付けられていましたが、ここでは「これから」と「ただいま」の微妙な間合いが語られています。こうした「時」の表現の中に親鸞の思想の深さをうかがうことができます。
 聖道門と浄土門の最大の違いは、前者が「今生の悟り」を目指すのに対して、後者は「来生の往生」を目ざすことにあります。その意味では、前者は「ただいま」の救いを求めるが、後者は「これから」の救いを求めると言ってもいい。ただ前者にしても「今生の悟り」は厳しい修行を積み重ねることによって「これから」つかみとらねばならない高い目標です。ですから、前者は今生での「これから」、後者は来生での「これから」を目指しているということです。とりわけ浄土門は、いのち終って後の、はるか遠い「これから」に目が向いています。

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