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4月19日(金) [はじめての親鸞(その113)]

 聖道門も浄土門も「これから」に目が向いているように思えます。
 目が「これから」に向いているということは、遠い将来に向かって一歩一歩進んでいくというイメージです。「こちらから」目標に近づいていく。これはしかし根本的に「自力」の発想ではないでしょうか。ある目標に向かって一歩一歩進んでいくというのは、まさしく自力のイメージです。
 往生そのものは本願によって与えられても、その目標に向かって歩んでいくのはこの自分でしかありません。よちよち歩きの赤ちゃんが、向こうで手を広げて待っていてくれるお母さんを目指して、倒れては立ち上がり、よろよろしながら一歩一歩進んでいく姿は自力で生きることの原点ともいうべきものです。
 このように「これから」を見つめるのは自力の目ですが、それに対して「ただいま」を見つめる目があります。この場合の「ただいま」とは、英語の時制で言いますと、「現在形」でも「現在進行形」でもなく、「現在完了形」です。家に帰ってきた子どもは元気よく「ただいま」と言いますが、これは「ただいま帰りました」ということです。「ただいま」と言った時点で、もうすでに家に帰っているのです。
 親鸞は「うべきことをえてむず」と表現しますが、この「えてむ」に完了の意味が込められています。「もうすでに」得てしまったと言っているのです。「欲しい、欲しいと思っていたものが、実はもう手の中にあるじゃないか、これまで気がつかなかっただけなのだ」と天に踊り地に躍るほど喜ぶ。
 これが「与えられる信」です。

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