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4月22日(月) [はじめての親鸞(その116)]

 「こんな自分が救われるはずがない」と「そんな自分がそのままで救われる」。
 『歎異抄』に出てくる親鸞のことばで言いますと、「いづれの行もをよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」が機の深信、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなり」が法の深信です。あるいは「そくばくの(そこばくの、数え切れないほどの)業をもちける身」が機の深信、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞ひとりがためなりけり」が法の深信です。
 機の深信と法の深信は別ものでしかも矛盾するように見えますが、実は同じものです。同じものをどちらから見るかによって、その姿が全く違うように見えているにすぎません。同じものを機から見るか、法から見るかの違いです。
 ところが、どうかすると機の深信が法の深信の前提条件であるかのように思ってしまいます。まず機の深信があってしかる後に法の深信があると。ぼく自身長い間そう思ってきました。自分を「罪悪生死の凡夫」と自覚するからこそ、そんな凡夫を助けてくださる本願のかたじけなさが身に沁みるのだと。機の深信があってはじめて法の深信があると時間的順序をつけて考えてきたのです。
 ところがあるとき思いがけない質問を受けました。法の深信は「向こうから」与えられるものでしょうが、機の深信も他力でしょうか、それともこちらは自力でしょうかと言われるのです。
 虚をつかれた思いでした。

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