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4月26日(金) [はじめての親鸞(その120)]

 目の前に行き倒れの人がいますと、思わず駆け寄って「どうしました」と介抱してあげるでしょう。これが世の「よい人」で、この人たちが暗い世の中に灯かりをともしてくれています。確かに世の中それほど捨てたものじゃありません。
 でも残念なことに、ぼくらの「生かしめんかな」は純粋ではありません。「生きんかな」の紐がついた慈悲で、「生きんかな」が許容する範囲を超えてまで働くものではありません。行き倒れの人がいたら、介抱して救急車を呼んであげますが、精々そこまでで、病院まで付き添ってあげる人はどれだけいるでしょう。まして、その人が元気になるまで面倒を見てあげることができるでしょうか。
 「善きサマリア人」にはなれないのです。「生きんかな」が足を引っ張るからです。こんなふうにぼくらの善い心は「生きんかな」に汚染されています。それがいけないと非難したいのではありません。「善きサマリア人」になれないようでどうするのだと歎いているのではありません。それがぼくらの偽らざる姿だと言っているのです。ぼくらの「生かしめんかな」は、すぐ化けの皮が剥がれて「生きんかな」の正体が暴露されると言っているのです。
 外に菩薩の顔を見せても、内にはサソリの心が潜んでいるのがぼくら凡夫というものです。サソリの心を退治しようと思っても、できるものではありません。これが「自分は紛れもなく罪深く迷いの中にある凡夫で、はるか昔からずっと生死の海を流転してきて、そこから抜け出る縁などあるはずがない」ということです。

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