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はじめての親鸞(その123) ブログトップ

4月29日(月) [はじめての親鸞(その123)]

 「自分は紛れもなく罪深く迷いの中にある凡夫」だと身に沁みて感じるとき、もうすでに「そんな煩悩を持った凡夫がそのまま救われる」の声が届いています。こんな「紛れもなく罪深く迷いの中にある凡夫」を「生かしめんかな」とする声が聞こえている。
 この「生かしめんかな」は純粋無垢の「生かしめんかな」です。そこには自らが「生きんかな」とする心が一切含まれていないのですから。その清浄無垢な「生かしめんかな」の声が心に沁みわたる。これが法の深信です。ですから機の深信は裏返せば法の深信です。こちらに機の深信があって、あちらに法の深信があるのではありません。機の深信がそっくりそのまま法の深信なのです。
 「こんな自分が救われるはずがない」という思いは自分からは出てこず、自分では「そう捨てたものではない」とないと思っていると言いましたが、それどころではありません。「あんなヤツが救われるはずがない」と他の誰かを救いから除外しようとしています。
 ちょっと自分の心の動きを点検してみましょう。ぼくらはいつも善悪の尺度で人を測っていますが、そのとき必ず自分よりももっと悪い人がいないでしょうか。自分はとても善人とは言えないだろうが、しかしもっと悪いヤツはいくらでもいると思っていないでしょうか。
 善悪に限らず、何らかの尺度で測るということはものごとを相対的に見るということです。10センチは1メートルに比べると短いが、1センチに比べると長い。同様に、ぼくは太郎と比べると悪人だが、次郎と比べると善人です。

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