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はじめての親鸞(その126) ブログトップ

5月2日(木) [はじめての親鸞(その126)]

 「こんな自分は救われない」と「そんな自分が救われる」、この矛盾について考えてきました。いよいよ、どうして「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」なのか、これにはっきりと答える時がきました。
 第2章でこう言いました、善人というのは、自分の中の悪に目隠ししている人だと。他人の悪ばかり目に付いて、自分の悪は目に入らない、自分の中に悪があるとしても、そんなのは高が知れていて、もっとひどいヤツはいくらでもいると思っている。そんな人にとって「どんな悪人も例外なく救われる」ましてや「悪人の方が救われる」などということはあってはなりません、それは正義に反します。
 この免疫反応は生体としてごく真っ当なものです。
 どんな生体も、何を摂取し、何を排除するか厳格な基準に従って行動しています。そこで過ちを犯せば、直ちに死に脅かされるからです。もっとも原始的なアメーバも、これは摂取してよし、これは排除すべしとその都度「判断」しているはずです。
 ぼくら高等な人間にはきわめて複雑な基準がありますが、中でも善悪の基準が重要です。これは善いから摂取すべきで、これは悪いから排除すべきだと、何かにつけて取捨選択しています。それがぼくらの社会生活を成り立たせているのです。そこで過ちをすることは、ぼくらの社会生活の崩壊につながります。

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