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5月11日(土) [はじめての親鸞(その135)]

 ある方はこんなふうに言われます、お寺でみんなと一緒に念仏するのは自然にできるのに、一人で念仏しようとするとどうしても喉に引っかかってしまうと。自分だけで念仏しようとしますと、どうしても「称えよう」と意識しますから、そこに「わたし」がしゃしゃり出てきて何ともギクシャクしてしまう。この感覚はよく分かります。「賜りたる信心」はしっくりきても、「賜りたる念仏」とはなかなか思えないものです。
 そもそも「南無阿弥陀仏」とは何か。
 この不思議なことばはインドのサンスクリットの音写で、「無量の光の仏(阿弥陀仏)に帰依します」という意味です。帰依するとは「仰せを信じて従う」ということですから、これはぼくらが仏に向かっていうことばだと思います。ところが親鸞はびっくりするようなことを言うのです、「南無といいますのは帰命ということです。…帰命とは本願がわれらを招喚してくださる勅命です」と。省略した箇所で帰命の「帰」と「命」についての綿密な文字の解釈が施されているのですが、ともあれ「南無阿弥陀仏」は、ぼくらが仏に言うのではなく、仏がぼくらに命じていることばだと言うのです。
 「帰っておいで」と呼びかけている。
 「南無阿弥陀仏」は、ぼくらが「こちらから」称えるものではなく、「向こうから」聞こえてくるもの。第3章で、お母さんの「おかえり」の声が聞こえているから、子どもは元気よく「ただいま」と帰っていけるのだと述べましたが、「南無阿弥陀仏」はその「おかえり」の声なのです。お母さんが子どもに「おかえり」と呼びかけてくれるように、仏がぼくらに「帰っておいで」と招いてくれる、それが「南無阿弥陀仏」。

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