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5月12日(日) [はじめての親鸞(その136)]

 仏の願いが本願であり、仏の呼びかけが「南無阿弥陀仏」(これを名号と言います)だと言ってきましたが、どうして本願だけではなく、それに加えて名号が必要なのか。
 また故郷の親を引き合いに出しますと、親は遠く離れて暮らす子どものことを心配し、「元気でいてほしい、幸せであってほしい」と願っています。この親心は、ただ心配し、願うだけにはとどまりません。その思いをどうにかして子どもに伝えずにはいられなくなります。手紙を書いては「元気でやっているか。困ったことがあったらすぐ連絡をよこせ」と伝え、返事が来ないからと電話をかけて安否を問い合わせたりします。
 仏の慈悲は「一切衆生を往生させたい」と願うだけではおさまりません。その願いを一切衆生のもとへ届けずにはいられなくなります。それが「南無阿弥陀仏」です。「帰っておいで」の呼びかけです。親が子どもに「いつでも家に帰ってこいよ」と伝えるように、仏は一切衆生に「いつでも浄土に帰っておいで」と呼びかけるのです。かくして本願だけではなく名号が是非とも必要となります。
 第十八願の前に第十七願がおかれているのはそういう理由からです。
 第十七願とは「十方世界の無量の諸仏が、わたしを讃えて、わたしの名を称えなければ、わたしは仏にならない」というものです。ぼくは長い間この願の意味がよく理解できませんでした。『教行信証』を披きますと、「序」に続いて「教巻」があり、そこでは「浄土の教えは『無量寿経』に説かれていて、弥陀の本願と名号がその要である」とあっさり書かれているだけで、その次に「行巻」がきます。そしてその冒頭に、行というのは「無碍光如来のみ名を称するなり」とあるのはいいのですが、よく分からないのが、その根拠として第十七願が出されているということです。

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