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はじめての親鸞(その139) ブログトップ

5月15日(水) [はじめての親鸞(その139)]

 ここで思い起こしたいのは「歓喜踊躍」です。本願に遇うこと、同じことですが、名号を聞くことには突き上げるような喜びが伴うということです。「そのまま生きていていいよ」という声は、ただ情報を伝達してくれるようなものではありません。この声は、それを聞くこと自体が心地よいのです。それはただのことばではありません、歌のようなものです。
 歌は、それがぼくらのこころと共鳴した時、何とも言えない喜びを与えてくれます。それだけじゃありません、その喜びはこころの中でじっとしていることができず、外にはけ口を求めます。いい歌が聞こえてきて、嬉しくなりますと、思わず口ずさんでしまわないでしょうか。それが「名号を称える」ことだと思うのです。
 どこからか名号が聞こえてきて、ぼくらに喜びを与えてくれます。そしてその喜びはもうじっとしていることができず、ぼくらの口からおのずと名号が称えられるのです。どこからか歌が聞こえてきて、ぼくらは何だか嬉しくて仕方なく、一緒に歌ってしまうようなものです。
 こうして「名号を聞く」ことはそれだけで閉じることはできず、「名号を称える」ことに繋がってはじめて円環が閉じられると言えそうです。そして歌は、それがいい歌でしたら何度聞いても繰り返し喜びが与えられるように、「そのままで救われる」という声は、何度聞いてもその都度はじめて聞くような嬉しさを感じます。そしてその都度一緒に歌ってしまうのです。

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