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5月21日(火) [はじめての親鸞(その145)]

 「わたし」が「なむあみだぶつ」を聞くのではありません、「わたし」が「なむあみだぶつ」を称えるのでもありません。「なむあみだぶつ」が「なむあみだぶつ」を聞き、「なむあみだぶつ」が「なむあみだぶつ」を称えるとでも言うしかありません。どこからかやってきた「なむあみだぶつ」がぼくの身体を温めてくれ、またぼくの口から出て、誰かに届けられる。
 これは「なむあみだぶつ」のリレーと言うべきでしょう。
 『歎異抄』にこんなくだりがあります、「阿弥陀仏の本願がまことでしたら、釈尊の教えも虚言ではないでしょう。釈尊の教えがまことでしたら、善導の解釈も虚言であるはずはありません。善導の解釈がまことでしたら、法然の言われることもそらごとではないでしょう。法然の言われることがまことでしたら、この親鸞の言うことも、またむなしくないのではないでしょうか。結局のところ、愚かな身の信心というものは、こんなものです。この上は、念仏をとって信じられようと、あるいは捨てられようと、みなさんお一人おひとりのお考えです」。
 これは「なむあみだぶつ」は、はるかかなたからリレーされてきたものだということを述べています。わたし親鸞の「なむあみだぶつ」は法然からリレーされ、法然は善導から、善導は釈迦からリレーされてきた、というぐあいに時間的に遡っているのです。そしてそれは当然阿弥陀仏に行き着きます。
 では阿弥陀仏以前はどうでしょう。

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