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6月2日(日) [はじめての親鸞(その156)]

         第7章 仏になる
 仏とは仏陀(サンスクリットBuddhaの音写です)の略で、悟りをひらいた人の意味です。釈迦は35歳のとき悟りをひらいて仏陀となったのですが、われら愚かな凡夫は今生で悟りをひらくことなどできず、往生してのち仏となることができるとするのが浄土の教えの基本です。今生で仏になることを目指すのが聖道門ですが、浄土門では仏になるのはいのち終わってからのことです。今生で「本願を信じ念仏をまう」し、来生にめでたく「仏になる」。
 でも、いま救いを求めているのに、いのち終わってから救われると言われても一向に有難くありません。
 これまで、救いの本質は「もうすでに」という点にあると述べてきました。「このまま生きていていいのだろうか」という鉛のような思いを抱えている人が、あるとき「そのまま生きていていい」という声に遇うことができ、もうすでに救われていることに気づく。これが救いです。「これから先」ではなく「もうすでに」。しかし仏になるのは「これから先」。先も先、いのち終わってのちのことです。
 救いには二つあるようです。
 居心地の悪さをもたらすのは煩悩ですから、その煩悩からすっきり解放されること(その境地を涅槃と言います)、これが一つ目の救いです。悟りをひらいて仏になるというのはこちらです。それに対して、煩悩にまみれながら、しかしもう煩悩にとらわれないという救いがあります。煩悩から解放されるわけではありませんから、依然として居心地は悪いのですが、でも不思議な安心がある。「煩悩のまま生きていていい」という声が聞こえているからです。これが二つ目の救いです。

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