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6月11日(火) [はじめての親鸞(その165)]

 「今生の往生」、これが親鸞の他力のスタンスです。「今生の往生」が他力で、「来生の往生」は自力。なぜか。
 「来生の往生」に希望を託すという言い方をしましたが、ここにすでに「自力」の姿が垣間見えています。ぼくらは「いま、ここ」で抱えている問題を「いつか、どこかで」解決したいという希望を持ちます。ぼくらが生きるということは将来に希望を託すということに他なりません。
 生きているうちに次々と問題が持ち上がってきますから、その場で即座に解決できないことは「いつか、どこかで」解決しようと思います。難しそうな問題でも「何とかなるさ」と、将来に希望をつながざるをえません。そして将来に希望をつなぐということは、そのために今できることをしようとすることです。これが自力です。
 「来生の往生」は究極の希望でしょう。ですから「来生の往生」に向けて念仏するのは究極の自力です。
 さて「今生の往生」はと言いますと、「いつか、どこかで」果たされる希望ではありません。気がついたときには「もうすでに」果たされているのです。生きることに居心地の悪さを抱えているとき、ふと「そのまま生きていていい」の声が聞こえてきます。
 その声は聞きたいと思って聞けるものではありません。思いもかけず聞こえてくるのです。そしてそのとき、もうすでに「今生の往生」が起こっているのです。これが他力です。親鸞は「不可思議」ということばをしばしば使いますが、これはまさに不可思議としかいいようがありません。

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