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6月12日(水) [はじめての親鸞(その166)]

 森岡氏の宗教に対する異議申し立てはもうひとつありました。「絶対の真理がすでに誰かによって説かれている」とすることへの違和感です。彼が言うように、絶対の真理がすでに説かれているとしますと、それを疑うなんてもってのほか、その前に跪き、ありがたくおしいただくのみです。
 「本願に遇うことができたそのとき、もうすでに今生の往生が成就している」ということも、経典のどこかにそのように説かれているのを親鸞があり難くおしいただいているだけでしょうか。もしそうなら私はもうついていけないと森岡氏は言うでしょう。
 宗教書を読んでいて辟易するのは、さまざまな疑問に対して「それは無量寿経のどこそこ(キリスト教ならマタイ福音書のどこそこ)にこう書かれています」と答えるところです。その答えは、無量寿経やマタイ福音書には真理が詰まっていると考えている人、つまり信者にしか通じません。そのように思っていない外部の人は「それがどうした」としか反応できず、「経典ではなく、あなた自身はどう考えるか?」と問いたくなります。
 さて親鸞はどうか。こころみに『教行信証』を披いてみますと、もう全篇が「何々経や何々論のどこそこにこう書いてある」で埋め尽くされています。彼自身のことばは全体の十分の一もあるでしょうか。これでは森岡氏に愛想をつかされてしまいそうです。
 前もってひと言いっておかなければならないのは、そのように経や論からこれぞと思う箇所を引用することによって自分の考えを述べるというスタイルは当時としてはごく普通であったということです。源信の『往生要集』然り、法然の『選択本願念仏集』然りで、みな「文集」なのです。
 『教行信証』も正式には『顕浄土真実教行証文類』と言い、要文を集めるという当時の学問のスタイルを踏襲しているにすぎません。大事なことは、そのスタイルが絶対の真理の前に疑いを停止することになっているかどうかということです。

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