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6月20日(木) [はじめての親鸞(その174)]

 唯円さんが『歎異抄』第15章で取り上げている「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえてぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてける」という和讃をどう読むべきか。
 「ながく生死をへだてける」を「仏になる」と読むべきか、それとも「すでに仏である」と読むべきか。「わたし」から見るか、それとも「弥陀」から見るかによります。「わたし」からでしたら「仏になる」でしかありませんし、「弥陀」からでしたら「すでに仏」と解釈して問題ありません。弥陀からすれば、一切の衆生はそのままで仏なのです。
 即身成仏の誤りは、仏からしか言えないことを衆生が言うところにあります。「そのままで仏」を「このままで仏」としてしまうからいけないのです。ぼくらはあくまで「そのままで仏」と聞かせてもらえるだけです。それを「このままで仏」などと言うものですから、とんでもない妄言になってしまうのです。
 さて、それでは仏とは一体何か。
 この問いには独特の難しさがあります。まず親鸞にとって仏の位置づけがこれまでの伝統仏教(聖道門)と根本的に異なっています。これまでの仏教では、教え(教)とそれに基づく修行(行)により悟り(証)を得ることができ、悟りを得たものを仏と呼びます。ですから大事なのは教と行で、その結果としての仏については取り立てて何も言うことがありません。
 しかし親鸞にとって、仏は教と行の結果ではなく、逆に教と行が仏の結果なのです。教も行も阿弥陀仏から与えられるという位置づけです。としますと改めて仏とは何かということが大問題となります。

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