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6月25日(火) [はじめての親鸞(その179)]

 阿弥陀仏は光明だと言われます。でも光明で包み込んでくれるということは、その光明を発する元があるはずです。ぼくらは日々明るい光を浴びていますが、その光は太陽からきています。同じように、光明の中に摂取していただくという働きがあるとすれば、その働きをしているものがなければなりません。
 ここが一番大変なところだろうと思いますが、適当なことばで、例えば「大いなるもの」などと逃げてはいけません。今日明日の命のお婆さんから「阿弥陀仏はどこにおわしますか」と問われたらどう答えるか。お前にはその答えがあるか、と自分に匕首を突きつけなければなりません。
 ぼくならこう答えます、「あなたに“そのまま生きていていいよ”と言ってくれる人、その人があなたにとっての阿弥陀仏です」と。この答えは浄土真宗の正統的な教えから言えば邪説かもしれません。でも、親鸞が言っていることをぼく自身のことばに置き換えれば、この答えが出てくるのです。それは浄土真宗の親鸞ではないと言われたら、「そうですか、でもこれがぼくの親鸞です」と言うしかありません。
 阿弥陀仏とは自然法爾、つまり「こちらから」はからうのではなく「向こうから」はからっていただいているということを「しらせんれうなり」と言われていました。しかし、そうは言っても、「向こうってどこだ?」という疑問が湧き出てくるのを止めることはできません。そこで「あなた」と答えたいのです。「そのまま生きていていい」と呼びかけてくれる「あなた」が阿弥陀仏だと。

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