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7月3日(水) [はじめての親鸞(その187)]

 浄土とか念仏とか言いますと、それは暮らしの一線から退いた老人のものという感覚があります。実際お寺の中に若者の姿を探すのは困難です。しかし、どんな思想にせよ、日々の暮らしの中で生きてこそ値打ちがあるのは言うまでもありません。
 そこで親鸞の他力思想と暮らしの関係を是非とも見ておきたいのです。親鸞自身が暮らしの中で念仏をどんなふうに生きたのかを知りたいのです。とは言うものの、親鸞がどんな暮らしをしていたのか、その実像は杳として知りがたく、いくつかの断面に光を当てるだけになります。
 親鸞は承元の法難で越後に流罪となりますが、それが許された後も京都に戻ろうとしませんでした。しばらく越後に留まり、そのあと常陸の国に向かいます。どうして京都に帰らなかったのか、どうして常陸に行ったのか、そこにはさまざまな事情があったに違いありませんが、一番根っ子には「非僧非俗」のスタンスがあったと思うのです。
 もはや僧ではない、しかし俗でもないという生きざまを貫くために、京都での僧としての生活に戻らず、草深い関東で生きることを選んだのではないか。この「非僧非俗」ということばは『教行信証』の末尾でこれまで歩んできた道を振り返っている中に出てきます。
 「ここに興福寺の学僧が、後鳥羽上皇、土御門天皇の時代、承元元年の二月上旬に朝廷に念仏の停止を願い出ました。天皇も臣下も、法に背き正義に反し、怒りと恨みの心から判断を下しました。それにより、浄土の真宗を興された源空上人をはじめ、その門弟たちに、罪の軽重を考えることもなく、乱暴にも死罪としたり、あるいは僧籍を奪い俗名を与えて遠流に処しました。私もその一人です。ですから、もうすでに僧ではありません、俗でもありません。というわけで禿の字をもって私の姓といたしました。」

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